10月26日、27日、船窪登山教室に参加し、数年来の夢であった黒部下の廊下を歩いた
小雨の降る中、黒4ダムを午前8時に出発し、黒部峡谷の流れをなぞる特別な旅が始まった。
リーダーを先頭に一列に並んだ総勢13名は、一歩一歩岩の感触を靴の裏で確かめながら、黒部の流れから立ち上がって来る冷気を感じ始め微かな興奮を感じずにはいられなかった。
これから、私たちの上に流れて行く時間は、黒部の想像を絶するスケールの大きさを全身全霊で感じる時間でもあるのだ。
そして・・・今、私たちが歩を進めている道は、かつて黒部川の電力開発の為に、岩肌を穿って作られた旧日電歩道と呼ばれる道なのだ。まるで等高線をなぞるようなこの道は十字峡、仙人ダム、阿曽原を経て欅平まで30km続く。
内蔵助谷から無数の巨大だ石が吐き出されたような出合を越えると、足のリズムが呼吸と幸せな共鳴を感じさせてくれる。
一刻たりとも気を許せない道を全員、無言で一列に並んで歩くのだが、先頭近くで元気よく歩くお母さんの少女のような後ろ姿が、私の緊張を和らげてくれる。
いくつかのスノーブリッジが自然の造形の美しさと、力強さを見せつけながら・・・あと何日かすれば確実に新しい雪がこの雪渓の上にも降り・・・まるでたくさんの秘密を閉じ込めてしまうような白い季節がはじまる。
黒部別山出合では雪渓が私たちの足をとらえ、足元に冷気がまとわりついてくるようだ。道は小さなクランクを描き、何本かの梯子を上り振り返ると,黒部別山がのしかかるように見える。そして岩壁にはりつくように生えている樹々が燃えるような赤や黄色の輝きを発している。
私たちは・・・この風景に完全に言葉を失い・・・圧倒されていた。「ジパング」・・・樹々が短い秋の季節のなかで黄金色に輝き、まさに「黄金の国」に迷い込んでしまった自分を感じていた。
細かい雨。冷ややかな風。微かな光。これらの全てが・・・歩いている者にだけ与えられた、無上とも思える五感の喜びだ。
十字峡を見下ろす岩盤にたどり着いた時には・・・既に午後になっていた。
谷は深く険しくなり、水平歩道も垂直に切れ落ちているが・・たった50センチ幅のこの足元にいくつもの大文字草が風に揺られながら、まるで私の登山靴にささやきかけるように微かに触れてくる。
自分の存在さえあやふやになってしまいそうな・・・この黒部の巨大な自然の中で、小さな小さな植物たちがいくつもの季節を繰り返しているかと思う と胸が熱くなって来る。なにもかもが素晴らしい自然の営みと時間の贈り物の中で私は、今・・・この道を歩いている幸せを全身で感じていた。そして・・・水 平歩道を歩き始めて。ずっと左手でなぞり確かめてきた岩壁の感触は、電力開発のために私たちの見知らぬ遠い兄弟たちが命を削りながら作った情熱と執念の感 触でもある。
まるで「迷宮」とでも呼べるようなこの道は、短い秋の燃えるような時を迎え、私たちの通行を許してくれている。
およそ20kmの一日目の行程を終え、激しくなった雨の中、阿曽原温泉小屋にたどり着いた時は、既にヘッドランプの灯りを借りなければならない時間になっていた。
雨は夜中、小屋の屋根を激しく叩き、窓を揺らした。この夜、黒部の谷にヒョウが降った。
翌朝、小屋の出口に出た私たちの前には、雪をまとった岩壁がそびえ立ち、激しい雨をくぐり抜けるように、高熱隧道から硫黄の臭いが漂っていた。
雨に濡れた落ち葉は、踏む度に豊かな香りを放ち、黙々と歩く13人の心に同じ想いをとどけているかのようだった。
この日もまた、とんでもない高さに、まるで彫刻刀で1本の長い切れ目を入れられたような水平道を何時間も歩く。雨は小降りになり、突然、巨大な岩 壁を気まぐれな陽の光で暖色に染めたりするのだが、その度に私たちは歓声をあげ、どんな小さな自然の変化も見逃さないようにしていた。
水の流れる真っ暗なトンネルで越える志合谷。すでに行程は終盤を迎えようとしているのだが・・この道と、この風景と別れることの、言いようのない寂しさが私の中に広がっていた。
前日からの行動時間は合わせると既に12時間を越えているというのに・・・今、私が感じているのは「疲労」ではなく、この時空に自分を置いていることの、涌き上がってくるような喜びだった。
前を歩く仲間の背中にも、分かち合ってきた喜びがあり・・・そして・・・ふと、振り返って見た後ろに続く仲間の視線にも・・・同じ思いを放つ眼差しがあった。今回が4度目の下の廊下だという、お母さんも、穏やかな微笑みで私たちの喜びを包み込んでくれているかのようだ。
とうとう欅平が眼下に見え始めた時・・・まるで、「黄金の国」の迷路を旅してきた長い夢から覚めたような・・・不思議な錯覚にとらわれた。
黒部の自然の計り知れない大きさと神秘。この神秘の国に迷い込む道を作ってくれた人々の熱い思いと、過酷な果てしない労働の日々。長い時間。何度も何度も繰り返されてきた季節。すべてが愛おしく・・・この山行に参加したことが偶然ではなく必然のような気すらしていた。
欅平でトロッコに乗り・・・冷ややかな風に吹かれながら・・・私たちはまるで子供のようにはしゃぎながら、すっかり穏やかな姿に変わった黒部川の流れと金色に散ろうとしている落葉松の森を見ていた。
トロッコの終点、宇奈月には前日,扇沢で私たちに、山行の安全を祈りながら見送ってくれた、お父さんの笑顔が待っていた。
この後、お父さんの運転で向かったのは、日本海の町、親不知だ。お父さんお母さん心づくしで用意された海の幸のあふれた食事は、この緊張続きの山行をとびきり、贅沢なものにしてくれた。
激しく怒り狂うような水の流れもやがて海にたどり着くように・・・私たち旅も、最後のページは海だった。
その時、まるで、2日間、全員がそれぞれの思いを胸に歩き通したご褒美とでもいうように・・・・足元の海の中から突然立ち上ってきた虹!手を差し出せば触れる事のできそうな虹! きっと、誰もこ風景を忘れることはないだろう。もちろん、私も・・・・・。
今野 美絵
お父さん、お母さん、素晴らしい登山教室をありがとうございました。これからもずっとずっと、山を歩く喜びと辛さを大切にしたいと、改めて強く感じました。
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